そして「政治」の原理を考えるシリーズも今回が最終回です!!
結論からかきましょう。
僕はこれからの時代に必要な「政治」の原理とは、
「自分の生き方や理想の社会について考える」
そして
「理想を求めていく」
こと自体であると考えています。
1回から3回までの連載で、マキャベリの時代から「大衆」の誕生までを振り返ってみました。
現代のような大衆デモクラシーの世の中では、「政治」を身近に考えることは難しいのかもしれません。
それが証拠に、「政治」と聞くと毛嫌いしてしまう人や、単にネガティブなイメージを持ってしまう人が多いように思います。
でも「政治」とは本来そのようなものじゃない。
「みんなの幸せをどう築いていくか」
これが政治学の基本テーゼなんです。
100人いたら100通りの幸せがある。
もちろんそれぞれの理想の生き方や社会は異なる。
しかし人々が集団で暮らしていくためには「決定」を行わなければならない。
ならば、どうすればなるべく多くの人が「幸せ」になれるのか。
また、どうすればなるべく多くに人が「納得」がいくのか。
これを考えていくのが「政治」の根源に他なりません。
そして今の時代は、その「政治」を担う「主体」は僕たち全員なんです。
これはマキャベリの時代からすると相当な変化です。
マキャベリの時代には理想の世の中をつくりあげていく人間は君主一人でよかった。
それが市民国家を経て、その主体が増大し続け、現代にいたるわけです。
現代に生きる僕たちは恵まれていると思いませんか?
しかし逆にその主体の絶対数があまりに増えたために、その「主体意識」が小さくなっていってしまったのかもしません。
だから「政治は自分と関係ないし、よく分からない」ってことになる。
でも「主体性」が放棄するということは、「政治」がまた絶対者の手のもとにかえってしまうということです。
僕はこのエッセイの中で何度も「考える」ことの大切さを書いてきました。
大切なのは「己で考える」ということなのです。
そして地方分権とはこの文脈において捉えられるべきものなのです。
多くの人が今の社会や、人生に不満がある。
正直今の日本が将来どうなるかだってなんてわからない。
だったら「まかせっきり」にする発想自体をやめればいい。
経済が大きく成長している時代は「上から」の「政治」にみんな満足がいく。
戦後の日本は、紛れもなく「社会主義」的な国でした。
社会のありとあらゆることについて、官庁が決める。
規格や許認可制にあふれたこの国では、どこの県でも同じような道路やダムがつくられていく。
それでも給料が上がって、経済大国と誇ることができた。
でももうそんな時代じゃない。
誤解を恐れずにいえば、僕は「GDPが世界第二位」なんていう看板や誇りには何も価値を感じない。
もっと一人一人が考えないとダメなんです。
「何が幸せなのか」
こんな風に自分の頭で考えていかないといけない。
人は不思議なもので、自分が主体的に考えて、その上で決まった結論には案外納得がいく。
それがたとえ自分の主張と違っていたとしてもです。
反対に、自分の知らないところで決まった「決定」には、生理的に従いたくないって思う。
だからこそ地方分権の必要性がある。
「自分の頭で考えて、自分たちで社会をつくっていく」
そんな世の中をつくるため。
これにはもちろん多くの制度改革が必要です。
税制の問題や教育など上げていけばキリがない。
少し前に議論されていた「ふるさと納税」などは非常に面白い。
しかしその前に最も必要なのは、人びとの意識なんです。
僕が「政治」にこだわるのもこのためなんです。
丸山さんの表現を借りれば、社会とはそこには「ある」ものではなく、「する」ものです。
「こんな世の中にだれがした!」
なんて不満をいうことは簡単です。
でもそれでは何も生み出さない。
こんな時代だからこそ、
「理想の社会とはなにか」
「理想の生き方とはなにか」
こんな風に真剣に考えることが大切なんです。
そしてそれを共有していくことが大切なんです。
だから既成概念や「現実」とされていることを疑う必要性がある。
「世の中」とは自分たちでつくっていくものである
こんな風に多くの人が考えるようになれば、世の中はかならず変わる。
もっと多くの人が自分の頭で考え、理想を描き、行動していったら
かならず今よりもっと素敵な国家が出来る。
以前に政経塾の立志論文において、
僕はあるべき国家の形として「考える国、ニッポン」ということを書きました。
これは今も間違っていなかったって思います。
この連載を読んでみて、
少しでも「政治」の見方が変わったり、
もうちょと「考え」てみようかなぁって思ってくれる人がいたら、
嬉しい限りです。
僕は将来にわたってもずっとこの「考える国」という理想を伝え続けていきたいって思う。
飲み屋で国家論を論じるのも、
こんな風に日記で連載するのも、
僕にとっては「政治」に他ならないのです。
僕はこれからの時代に必要な「政治」の原理とは、
「自分の生き方や理想の社会について考える」
そして
「理想を求めていく」
こと自体であると考えています。
1回から3回までの連載で、マキャベリの時代から「大衆」の誕生までを振り返ってみました。
現代のような大衆デモクラシーの世の中では、「政治」を身近に考えることは難しいのかもしれません。
それが証拠に、「政治」と聞くと毛嫌いしてしまう人や、単にネガティブなイメージを持ってしまう人が多いように思います。
でも「政治」とは本来そのようなものじゃない。
「みんなの幸せをどう築いていくか」
これが政治学の基本テーゼなんです。
100人いたら100通りの幸せがある。
もちろんそれぞれの理想の生き方や社会は異なる。
しかし人々が集団で暮らしていくためには「決定」を行わなければならない。
ならば、どうすればなるべく多くの人が「幸せ」になれるのか。
また、どうすればなるべく多くに人が「納得」がいくのか。
これを考えていくのが「政治」の根源に他なりません。
そして今の時代は、その「政治」を担う「主体」は僕たち全員なんです。
これはマキャベリの時代からすると相当な変化です。
マキャベリの時代には理想の世の中をつくりあげていく人間は君主一人でよかった。
それが市民国家を経て、その主体が増大し続け、現代にいたるわけです。
現代に生きる僕たちは恵まれていると思いませんか?
しかし逆にその主体の絶対数があまりに増えたために、その「主体意識」が小さくなっていってしまったのかもしません。
だから「政治は自分と関係ないし、よく分からない」ってことになる。
でも「主体性」が放棄するということは、「政治」がまた絶対者の手のもとにかえってしまうということです。
僕はこのエッセイの中で何度も「考える」ことの大切さを書いてきました。
大切なのは「己で考える」ということなのです。
そして地方分権とはこの文脈において捉えられるべきものなのです。
多くの人が今の社会や、人生に不満がある。
正直今の日本が将来どうなるかだってなんてわからない。
だったら「まかせっきり」にする発想自体をやめればいい。
経済が大きく成長している時代は「上から」の「政治」にみんな満足がいく。
戦後の日本は、紛れもなく「社会主義」的な国でした。
社会のありとあらゆることについて、官庁が決める。
規格や許認可制にあふれたこの国では、どこの県でも同じような道路やダムがつくられていく。
それでも給料が上がって、経済大国と誇ることができた。
でももうそんな時代じゃない。
誤解を恐れずにいえば、僕は「GDPが世界第二位」なんていう看板や誇りには何も価値を感じない。
もっと一人一人が考えないとダメなんです。
「何が幸せなのか」
こんな風に自分の頭で考えていかないといけない。
人は不思議なもので、自分が主体的に考えて、その上で決まった結論には案外納得がいく。
それがたとえ自分の主張と違っていたとしてもです。
反対に、自分の知らないところで決まった「決定」には、生理的に従いたくないって思う。
だからこそ地方分権の必要性がある。
「自分の頭で考えて、自分たちで社会をつくっていく」
そんな世の中をつくるため。
これにはもちろん多くの制度改革が必要です。
税制の問題や教育など上げていけばキリがない。
少し前に議論されていた「ふるさと納税」などは非常に面白い。
しかしその前に最も必要なのは、人びとの意識なんです。
僕が「政治」にこだわるのもこのためなんです。
丸山さんの表現を借りれば、社会とはそこには「ある」ものではなく、「する」ものです。
「こんな世の中にだれがした!」
なんて不満をいうことは簡単です。
でもそれでは何も生み出さない。
こんな時代だからこそ、
「理想の社会とはなにか」
「理想の生き方とはなにか」
こんな風に真剣に考えることが大切なんです。
そしてそれを共有していくことが大切なんです。
だから既成概念や「現実」とされていることを疑う必要性がある。
「世の中」とは自分たちでつくっていくものである
こんな風に多くの人が考えるようになれば、世の中はかならず変わる。
もっと多くの人が自分の頭で考え、理想を描き、行動していったら
かならず今よりもっと素敵な国家が出来る。
以前に政経塾の立志論文において、
僕はあるべき国家の形として「考える国、ニッポン」ということを書きました。
これは今も間違っていなかったって思います。
この連載を読んでみて、
少しでも「政治」の見方が変わったり、
もうちょと「考え」てみようかなぁって思ってくれる人がいたら、
嬉しい限りです。
僕は将来にわたってもずっとこの「考える国」という理想を伝え続けていきたいって思う。
飲み屋で国家論を論じるのも、
こんな風に日記で連載するのも、
僕にとっては「政治」に他ならないのです。
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☆★僕の想いを伝える日記☆★
「この世の中はおかしい」。そんな風に思う人はきっと多い。理想の生き方とはなにか。理想の社会とはなにか。そんなことを考え続ける人間でありたい。
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Aichi
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38
性別:
男性
誕生日:
1986/06/17
職業:
コンサルタント
趣味:
アルティメットフリスビー、読書
自己紹介:
はじめまして。Aichiです。
コンサルファームでアナリストをやっています。
【生きていく上で大切にしたい3か条】
1.矜持を持つ
僕は「矜持」という言葉が好き。
自分を正当化するためのプライドなんて必要ない。
自分に変なプライドがあって、
自分の可能性を狭めているのなら、
そんな偏屈な自尊心はポイっしたい。
素直な心があってこそ、
「誇り」は自らの力となる。
2.「理想主義」であること
僕は「現実主義」という言葉が好きじゃない。
よく「現実を見ろ」っていいますよね。
でもそれって結局のところ「現状維持」なんです。
理想を描ける人になりたい。
理想を語ることのできる人になりたい。
そういう意味での「理想主義」です。
3.誰かのために頑張れること
「社会貢献」ってよく聞きますけど、
それは一体何を意味するのでしょう。
「自分のまわりの人たちを大切にすること」、
僕はそんな風に定義できるのだと思います。
もちろん“まわり”っていうのは様々な範囲がある。
だから、ボランティアでゴミ拾いをしている人たちや、
食糧支援をしているNGOだけが「社会貢献」を担っているわけではない。
本当に小さなことでもいい。
「あなたがいてよかった」、
そんな風に思ってくれる人が一人でもいてくれれば、
それは紛れもなく「社会貢献」なのです。
コンサルファームでアナリストをやっています。
【生きていく上で大切にしたい3か条】
1.矜持を持つ
僕は「矜持」という言葉が好き。
自分を正当化するためのプライドなんて必要ない。
自分に変なプライドがあって、
自分の可能性を狭めているのなら、
そんな偏屈な自尊心はポイっしたい。
素直な心があってこそ、
「誇り」は自らの力となる。
2.「理想主義」であること
僕は「現実主義」という言葉が好きじゃない。
よく「現実を見ろ」っていいますよね。
でもそれって結局のところ「現状維持」なんです。
理想を描ける人になりたい。
理想を語ることのできる人になりたい。
そういう意味での「理想主義」です。
3.誰かのために頑張れること
「社会貢献」ってよく聞きますけど、
それは一体何を意味するのでしょう。
「自分のまわりの人たちを大切にすること」、
僕はそんな風に定義できるのだと思います。
もちろん“まわり”っていうのは様々な範囲がある。
だから、ボランティアでゴミ拾いをしている人たちや、
食糧支援をしているNGOだけが「社会貢献」を担っているわけではない。
本当に小さなことでもいい。
「あなたがいてよかった」、
そんな風に思ってくれる人が一人でもいてくれれば、
それは紛れもなく「社会貢献」なのです。
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