「「政治」とは何か」という連載の第三回。
今回は「市民」の崩壊について話しましょう。
前回は市民国家の成立について話しました。
古代アテナイのデモクラシーを理想とする市民国家は「討議」デモクラシーともいえるでしょう。
この討議を担った「市民」が崩壊するとはどういうことでしょう。
それは二つの意味において、考えることができます。
一つ目はイデオロギー暴露による「市民」の崩壊。
二つ目は「大衆」の誕生です。
一つめのイデオロギー暴露というのは「市民」という概念そのものに対する批判です。
これを初めに行ったのが、有名なカール・マルクスです。
彼は市民国家をブルジョア支配にすぎないと批判します。
つまり市民国家における、「理性的」な討議デモクラシーを、「市民」=ブルジョワによる支配の正当化ととらえたわけです。
彼は市民国家という概念そのものが、イデオロギーであると主張しました。
なるほど彼の主張は理解できる部分も多い。
当時の市民とは財産と教養を持つ人々でした。
無産階級の絶対多数の人びとは「市民」ではなかったのです。
「市民」は自分たちが財産と教養を独占していることによって“支配階級”であれたわけです。
しかも彼らはそれを「理性的」と称した。
またマルクスは人間疎外ということを問題にする。
社会的な格差や、搾取の構造に目をつぶって、
形式的な秩序形成を目的とする欺瞞的な体制。
彼にはこんな風に見えたのかもしれません。
マルクスの他にも、フロイトやウェーバーあたりも「市民」の欺瞞性について独自の意見を述べていたような気がします。
詳しく覚えていないのですが、二人とも「市民国家の理想は本当に理想の世の中なのか」ということが問題意識としてあったようです。
二つ目は「大衆」の誕生。
これは政治主体のさらなる増大ということです。
自由民権運動のなかで、選挙権というものが主張されるようになる。
例えば日本では、1925年に普通選挙法ができます。(普通といっても男性のみなのですが)
日本で最初に選挙が行われたときに、選挙権を持つことができたのは国民のわずか1%であったといわれています。
資産家でなければ、投票権を得ることができなかったのです。
この辺の事情は、どこの国も同じような歴史を持っているようです。
速かれ遅かれ、選挙に参加する人の数が増えていくわけです。
そうなると、一体どうなるか。
オルテガ・イ・ガゼットが『大衆の反逆』という有名な本を書きます。
大衆論のさきがけと言っていいでしょう。
オルテガはこんな主張をする。
今までは「財産と教養」を持った市民たちが理性的な言論をおこなってきた。
それでこそ、討議デモクラシーが成り立つ。
それなのに、教養も財産も持たず、「文明の作法」をわきまえぬ野蛮人(=大衆)が土足であがりこんできた。
まるでヴァンダル族ではないか。
つまり大衆が市民国家を崩壊させると危惧しているわけです。
この時代にはオルテガのみならず、いろんな思想家が大衆蔑視論というか大衆脅威論みたいなのを書く。
しかし時代の流れはもうかえることはできないところまできていました。
市民国家における「市民」は、理論的思想的に、さらに実際の政治的主体としても崩壊せざるをえなくなります。
大衆デモクラシーの到来とも呼べるでしょう。
ここまでくると現在の政治とだいぶ近づいてきました。
大衆デモクラシーにおいては、マスメディアが非常に大きな影響を持つ。
大衆は概念的には政治的主体であるのにもかかわらず、実際には「受動的」になる。
ハーバーマスのいう市民的公共性も崩壊してしまいます。
ざっとマキャベリから大衆デモクラシーの時代までを振り返ってみました。
これをみて皆さんは何を考えますか。
少し大雑把かもしれませんが、デモクラシーの発展とは「政治的な主体の変遷」であったともいえるでしょう。
僕は「政治」とは何かと考えるとき、
この「主体性」というのがキーポイントなんだと思っています。
次回のテーマは「政治」と「主体性」です。
これまで「政治」の歴史を簡単に振り返ってきました。
結局のところ、一体政治ってなんだろうってことを書きましょう。
たぶん次が最終回です。
古代アテナイのデモクラシーを理想とする市民国家は「討議」デモクラシーともいえるでしょう。
この討議を担った「市民」が崩壊するとはどういうことでしょう。
それは二つの意味において、考えることができます。
一つ目はイデオロギー暴露による「市民」の崩壊。
二つ目は「大衆」の誕生です。
一つめのイデオロギー暴露というのは「市民」という概念そのものに対する批判です。
これを初めに行ったのが、有名なカール・マルクスです。
彼は市民国家をブルジョア支配にすぎないと批判します。
つまり市民国家における、「理性的」な討議デモクラシーを、「市民」=ブルジョワによる支配の正当化ととらえたわけです。
彼は市民国家という概念そのものが、イデオロギーであると主張しました。
なるほど彼の主張は理解できる部分も多い。
当時の市民とは財産と教養を持つ人々でした。
無産階級の絶対多数の人びとは「市民」ではなかったのです。
「市民」は自分たちが財産と教養を独占していることによって“支配階級”であれたわけです。
しかも彼らはそれを「理性的」と称した。
またマルクスは人間疎外ということを問題にする。
社会的な格差や、搾取の構造に目をつぶって、
形式的な秩序形成を目的とする欺瞞的な体制。
彼にはこんな風に見えたのかもしれません。
マルクスの他にも、フロイトやウェーバーあたりも「市民」の欺瞞性について独自の意見を述べていたような気がします。
詳しく覚えていないのですが、二人とも「市民国家の理想は本当に理想の世の中なのか」ということが問題意識としてあったようです。
二つ目は「大衆」の誕生。
これは政治主体のさらなる増大ということです。
自由民権運動のなかで、選挙権というものが主張されるようになる。
例えば日本では、1925年に普通選挙法ができます。(普通といっても男性のみなのですが)
日本で最初に選挙が行われたときに、選挙権を持つことができたのは国民のわずか1%であったといわれています。
資産家でなければ、投票権を得ることができなかったのです。
この辺の事情は、どこの国も同じような歴史を持っているようです。
速かれ遅かれ、選挙に参加する人の数が増えていくわけです。
そうなると、一体どうなるか。
オルテガ・イ・ガゼットが『大衆の反逆』という有名な本を書きます。
大衆論のさきがけと言っていいでしょう。
オルテガはこんな主張をする。
今までは「財産と教養」を持った市民たちが理性的な言論をおこなってきた。
それでこそ、討議デモクラシーが成り立つ。
それなのに、教養も財産も持たず、「文明の作法」をわきまえぬ野蛮人(=大衆)が土足であがりこんできた。
まるでヴァンダル族ではないか。
つまり大衆が市民国家を崩壊させると危惧しているわけです。
この時代にはオルテガのみならず、いろんな思想家が大衆蔑視論というか大衆脅威論みたいなのを書く。
しかし時代の流れはもうかえることはできないところまできていました。
市民国家における「市民」は、理論的思想的に、さらに実際の政治的主体としても崩壊せざるをえなくなります。
大衆デモクラシーの到来とも呼べるでしょう。
ここまでくると現在の政治とだいぶ近づいてきました。
大衆デモクラシーにおいては、マスメディアが非常に大きな影響を持つ。
大衆は概念的には政治的主体であるのにもかかわらず、実際には「受動的」になる。
ハーバーマスのいう市民的公共性も崩壊してしまいます。
ざっとマキャベリから大衆デモクラシーの時代までを振り返ってみました。
これをみて皆さんは何を考えますか。
少し大雑把かもしれませんが、デモクラシーの発展とは「政治的な主体の変遷」であったともいえるでしょう。
僕は「政治」とは何かと考えるとき、
この「主体性」というのがキーポイントなんだと思っています。
次回のテーマは「政治」と「主体性」です。
これまで「政治」の歴史を簡単に振り返ってきました。
結局のところ、一体政治ってなんだろうってことを書きましょう。
たぶん次が最終回です。
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☆★僕の想いを伝える日記☆★
「この世の中はおかしい」。そんな風に思う人はきっと多い。理想の生き方とはなにか。理想の社会とはなにか。そんなことを考え続ける人間でありたい。
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Aichi
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38
性別:
男性
誕生日:
1986/06/17
職業:
コンサルタント
趣味:
アルティメットフリスビー、読書
自己紹介:
はじめまして。Aichiです。
コンサルファームでアナリストをやっています。
【生きていく上で大切にしたい3か条】
1.矜持を持つ
僕は「矜持」という言葉が好き。
自分を正当化するためのプライドなんて必要ない。
自分に変なプライドがあって、
自分の可能性を狭めているのなら、
そんな偏屈な自尊心はポイっしたい。
素直な心があってこそ、
「誇り」は自らの力となる。
2.「理想主義」であること
僕は「現実主義」という言葉が好きじゃない。
よく「現実を見ろ」っていいますよね。
でもそれって結局のところ「現状維持」なんです。
理想を描ける人になりたい。
理想を語ることのできる人になりたい。
そういう意味での「理想主義」です。
3.誰かのために頑張れること
「社会貢献」ってよく聞きますけど、
それは一体何を意味するのでしょう。
「自分のまわりの人たちを大切にすること」、
僕はそんな風に定義できるのだと思います。
もちろん“まわり”っていうのは様々な範囲がある。
だから、ボランティアでゴミ拾いをしている人たちや、
食糧支援をしているNGOだけが「社会貢献」を担っているわけではない。
本当に小さなことでもいい。
「あなたがいてよかった」、
そんな風に思ってくれる人が一人でもいてくれれば、
それは紛れもなく「社会貢献」なのです。
コンサルファームでアナリストをやっています。
【生きていく上で大切にしたい3か条】
1.矜持を持つ
僕は「矜持」という言葉が好き。
自分を正当化するためのプライドなんて必要ない。
自分に変なプライドがあって、
自分の可能性を狭めているのなら、
そんな偏屈な自尊心はポイっしたい。
素直な心があってこそ、
「誇り」は自らの力となる。
2.「理想主義」であること
僕は「現実主義」という言葉が好きじゃない。
よく「現実を見ろ」っていいますよね。
でもそれって結局のところ「現状維持」なんです。
理想を描ける人になりたい。
理想を語ることのできる人になりたい。
そういう意味での「理想主義」です。
3.誰かのために頑張れること
「社会貢献」ってよく聞きますけど、
それは一体何を意味するのでしょう。
「自分のまわりの人たちを大切にすること」、
僕はそんな風に定義できるのだと思います。
もちろん“まわり”っていうのは様々な範囲がある。
だから、ボランティアでゴミ拾いをしている人たちや、
食糧支援をしているNGOだけが「社会貢献」を担っているわけではない。
本当に小さなことでもいい。
「あなたがいてよかった」、
そんな風に思ってくれる人が一人でもいてくれれば、
それは紛れもなく「社会貢献」なのです。
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