今回の主題は「市民」の誕生です。
前回は政治的主体を考えていく中で、マキャベリにおいて近代的な主体性が生まれたところまで話しました。
マキャベリにおいて「国家」は初めて、作為的に作り上げられるものになったのです。
しかしこの絶対君主制は革命によって倒されていきます。前回は政治的主体を考えていく中で、マキャベリにおいて近代的な主体性が生まれたところまで話しました。
マキャベリにおいて「国家」は初めて、作為的に作り上げられるものになったのです。
ヒューマニズムの運動はいってみれば人間の解放運動に他なりません。
すべてが神によって定められていた、中世からの脱却です。
しかし宗教から解放された人間は、次第にお互いの利益を無限に求めていくようになります。
ホッブスの表現を借りれば、「万人が万人に対して狼となる」状況です。
このような背景のもとに、社会契約論が登場します。
この社会契約論が市民革命の原動力となっていった歴史はご存知のとおりです。
ルネサンス的な人間では、多数が合意の上に、社会や世の中を平和的に作っていくという可能性は生まれてこない。
いってみれば、理想を実現させるために作り上げられた“フィクション”が「契約」という概念なのです。
ルソーは、単に人々が恐怖から君主に従うのではなく、進んで主体的に権力のあり方を考えたときに、そこには社会契約という合意があらかじめあったと想定するしかないと、
こんな主張をします。
社会契約論とは政治的な主体意識を媒介に出来上がったものなのです。
革命を通じて絶対君主を妥当した人々は、まずルールを作りました。
人権を宣言する。
そしてそれを簡単には変えることのできない憲法に書き込みます。
また権力のコントロールということを考える。
近代憲法が人権の宣言と権力の監視という二つを含むのは、この市民革命の歴史を踏まえているからなのです。
そして中世からあった議会の再定義を行う。
つまり議会は国権の最高機関であると。
しかし当然ながら、制度をつくって政治が完成することはありません。
むしろ近代的な制度や法を整備したあとに、日々の政治がはじまる。
市民国家における、最大の問題は、いかにして市民相互の対立を調整し、少数者も納得して従うことのできる決定を生み出すか、というものでした。
それがそのまま議会政治の争点となり、議会とは何かという問いにもつながっていきます。
ここでエドマンド・バークの論理を紹介しましょう。
彼はイギリスの思想家であり政治家でもありました。
バークは「国民代表」という主張をする。
議員はどの選挙区から選ばれても、国家全体の代表であるべきであると論じたのです。
そして議員は議会において自由に意見を変えることができる。
バークは議会内での「討議」そのものを重視したのです。
そして理性的な討議を経てなされる多数決は、単なる個別的な利益の総数ではなく、
何が真に国民の利益かということに応える解答であると。
したがって少数者もそれに従わなければならない。
この「国民代表」の論理はその後の議会政治を基本をなしていきます。
議会の根本原理は多数決による意思決定です。
ただその前提としての討議に重きを置いている。
ここにおいて「理性的」な言論によって、
国家の利益を追求する「市民」が誕生したといえるでしょう。
また近代ヨーロッパの市民国家は、古代アテナイのデモクラシーの理想を引き継いだともいえます。
議論による意識決定を最高に尊重するという根本原理は変わっていません。
決定的に異なるのは、政治主体の数です。
市民国家においてははるかに多数の政治主体をもつことになる。
間接民主政がとられる。
しかし市民国家においては、議会以外にも多数の政治主体が「理性的」なコミュケーションを行う場が多数あった。
サロンやコーヒーハウスなどがそれです。
いわゆる「公共圏」というやつです。
このあたりのことはユルゲン・ハーバーマスが詳しく書いています。
興味のある方は読んでみてください。
議会の再定義や市民的公共圏の成立とは一体いかなる意味を持つのか。
その最も重要な意味が、政治的主体の増大であるといえる。
マキャベリの時代には、政治的主体は一人だけであった。
しかし市民国家の時代には、多数の市民がその主体となった。
いいかえれば、多くの人が、理想の社会や理想の生き方について主体的に考えるようになったということです。
デモクラシーはプロセスが重要であるといわれますが、それはこの文脈においてそうなのです。
つまり「考える」こと。
そして「議論する」こと。
これ自体に価値を置くのです。
日本では、いまいちこの感覚が希薄なのかもしれない。
何はともあれ、今回は市民国家の成立について話しました。
次回は「市民」の崩壊について書きたいと思います。
この連載の中で、最終的に「政治」の原理というか、「政治」のエッセンスみたいなものを少しでも提示出来ればなぁと思います。
すべてが神によって定められていた、中世からの脱却です。
しかし宗教から解放された人間は、次第にお互いの利益を無限に求めていくようになります。
ホッブスの表現を借りれば、「万人が万人に対して狼となる」状況です。
このような背景のもとに、社会契約論が登場します。
この社会契約論が市民革命の原動力となっていった歴史はご存知のとおりです。
ルネサンス的な人間では、多数が合意の上に、社会や世の中を平和的に作っていくという可能性は生まれてこない。
いってみれば、理想を実現させるために作り上げられた“フィクション”が「契約」という概念なのです。
ルソーは、単に人々が恐怖から君主に従うのではなく、進んで主体的に権力のあり方を考えたときに、そこには社会契約という合意があらかじめあったと想定するしかないと、
こんな主張をします。
社会契約論とは政治的な主体意識を媒介に出来上がったものなのです。
革命を通じて絶対君主を妥当した人々は、まずルールを作りました。
人権を宣言する。
そしてそれを簡単には変えることのできない憲法に書き込みます。
また権力のコントロールということを考える。
近代憲法が人権の宣言と権力の監視という二つを含むのは、この市民革命の歴史を踏まえているからなのです。
そして中世からあった議会の再定義を行う。
つまり議会は国権の最高機関であると。
しかし当然ながら、制度をつくって政治が完成することはありません。
むしろ近代的な制度や法を整備したあとに、日々の政治がはじまる。
市民国家における、最大の問題は、いかにして市民相互の対立を調整し、少数者も納得して従うことのできる決定を生み出すか、というものでした。
それがそのまま議会政治の争点となり、議会とは何かという問いにもつながっていきます。
ここでエドマンド・バークの論理を紹介しましょう。
彼はイギリスの思想家であり政治家でもありました。
バークは「国民代表」という主張をする。
議員はどの選挙区から選ばれても、国家全体の代表であるべきであると論じたのです。
そして議員は議会において自由に意見を変えることができる。
バークは議会内での「討議」そのものを重視したのです。
そして理性的な討議を経てなされる多数決は、単なる個別的な利益の総数ではなく、
何が真に国民の利益かということに応える解答であると。
したがって少数者もそれに従わなければならない。
この「国民代表」の論理はその後の議会政治を基本をなしていきます。
議会の根本原理は多数決による意思決定です。
ただその前提としての討議に重きを置いている。
ここにおいて「理性的」な言論によって、
国家の利益を追求する「市民」が誕生したといえるでしょう。
また近代ヨーロッパの市民国家は、古代アテナイのデモクラシーの理想を引き継いだともいえます。
議論による意識決定を最高に尊重するという根本原理は変わっていません。
決定的に異なるのは、政治主体の数です。
市民国家においてははるかに多数の政治主体をもつことになる。
間接民主政がとられる。
しかし市民国家においては、議会以外にも多数の政治主体が「理性的」なコミュケーションを行う場が多数あった。
サロンやコーヒーハウスなどがそれです。
いわゆる「公共圏」というやつです。
このあたりのことはユルゲン・ハーバーマスが詳しく書いています。
興味のある方は読んでみてください。
議会の再定義や市民的公共圏の成立とは一体いかなる意味を持つのか。
その最も重要な意味が、政治的主体の増大であるといえる。
マキャベリの時代には、政治的主体は一人だけであった。
しかし市民国家の時代には、多数の市民がその主体となった。
いいかえれば、多くの人が、理想の社会や理想の生き方について主体的に考えるようになったということです。
デモクラシーはプロセスが重要であるといわれますが、それはこの文脈においてそうなのです。
つまり「考える」こと。
そして「議論する」こと。
これ自体に価値を置くのです。
日本では、いまいちこの感覚が希薄なのかもしれない。
何はともあれ、今回は市民国家の成立について話しました。
次回は「市民」の崩壊について書きたいと思います。
この連載の中で、最終的に「政治」の原理というか、「政治」のエッセンスみたいなものを少しでも提示出来ればなぁと思います。
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☆★僕の想いを伝える日記☆★
「この世の中はおかしい」。そんな風に思う人はきっと多い。理想の生き方とはなにか。理想の社会とはなにか。そんなことを考え続ける人間でありたい。
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38
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男性
誕生日:
1986/06/17
職業:
コンサルタント
趣味:
アルティメットフリスビー、読書
自己紹介:
はじめまして。Aichiです。
コンサルファームでアナリストをやっています。
【生きていく上で大切にしたい3か条】
1.矜持を持つ
僕は「矜持」という言葉が好き。
自分を正当化するためのプライドなんて必要ない。
自分に変なプライドがあって、
自分の可能性を狭めているのなら、
そんな偏屈な自尊心はポイっしたい。
素直な心があってこそ、
「誇り」は自らの力となる。
2.「理想主義」であること
僕は「現実主義」という言葉が好きじゃない。
よく「現実を見ろ」っていいますよね。
でもそれって結局のところ「現状維持」なんです。
理想を描ける人になりたい。
理想を語ることのできる人になりたい。
そういう意味での「理想主義」です。
3.誰かのために頑張れること
「社会貢献」ってよく聞きますけど、
それは一体何を意味するのでしょう。
「自分のまわりの人たちを大切にすること」、
僕はそんな風に定義できるのだと思います。
もちろん“まわり”っていうのは様々な範囲がある。
だから、ボランティアでゴミ拾いをしている人たちや、
食糧支援をしているNGOだけが「社会貢献」を担っているわけではない。
本当に小さなことでもいい。
「あなたがいてよかった」、
そんな風に思ってくれる人が一人でもいてくれれば、
それは紛れもなく「社会貢献」なのです。
コンサルファームでアナリストをやっています。
【生きていく上で大切にしたい3か条】
1.矜持を持つ
僕は「矜持」という言葉が好き。
自分を正当化するためのプライドなんて必要ない。
自分に変なプライドがあって、
自分の可能性を狭めているのなら、
そんな偏屈な自尊心はポイっしたい。
素直な心があってこそ、
「誇り」は自らの力となる。
2.「理想主義」であること
僕は「現実主義」という言葉が好きじゃない。
よく「現実を見ろ」っていいますよね。
でもそれって結局のところ「現状維持」なんです。
理想を描ける人になりたい。
理想を語ることのできる人になりたい。
そういう意味での「理想主義」です。
3.誰かのために頑張れること
「社会貢献」ってよく聞きますけど、
それは一体何を意味するのでしょう。
「自分のまわりの人たちを大切にすること」、
僕はそんな風に定義できるのだと思います。
もちろん“まわり”っていうのは様々な範囲がある。
だから、ボランティアでゴミ拾いをしている人たちや、
食糧支援をしているNGOだけが「社会貢献」を担っているわけではない。
本当に小さなことでもいい。
「あなたがいてよかった」、
そんな風に思ってくれる人が一人でもいてくれれば、
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